辺留の海
7月1日。
僕は笠利町辺留のカトリック墓地で眠る祖父の墓参りへ向かった。奄美市名瀬から車で1時間ちょっと。梅雨明けを控えた奄美大島は、急激に気温があがり、うだるような暑さだった。
祖父の墓掃除を終え、僕は時間も忘れて墓前に手を合わせていた。刺すような日差しも問題ではなかった。ふと見上げると、真っ白いキリスト像が、穏やかな顔つきで墓地全体を見つめている。祖父は守られていると思うと、なぜだか嬉しかった。
沖縄が日本に復帰した昭和47年。
僕は、この辺留(べる)の地に生まれた。昭和50年、すぐ下の弟が生まれるまで、この場所で暮らしていた。その後、名瀬に移り住むことになったが、年に数ヶ月は辺留の祖父母の家に預けられたものだった。
祖父母は、茅葺の、昔ながらのシマの家に住んでいた。数は少ないが、祖父は牛小屋で牛と豚、山羊と鶏を飼っていた。夜になると祖母は大島紬を織っていた。テレビはNHKしか映らない。商店がない代わりに移動販売の車が品物を抱えてやってくる。そんな時代だった。祖父母と孫の3人の暮らし。ほんとうに幸せだった。
僕にとって、唯一の遊び場は辺留の海だった。エメラルド・グリーンに輝く、海を見つめながら、釣り糸を垂らす。時折、祖母が僕の名を呼びながら、聞きなれない名前の栄養剤を持ってきてくれた。
僕は祖母を「おっかん」と呼んでいた。
祖父の墓参りが済んだら、無性に辺留の海が見たくなった。
もうすぐ待望の谷口正樹さんのパッションフルーツが始まる。奄美の夏の始まりを告げる果物だ。思いっきりご紹介したい。そしてまた、この夏、あたらしい挑戦が始まる。下準備におおわらわですが、ご紹介できる、その日をご期待ください。
7月1日の辺留の海。手に取れそうなほど白い雲が近かったです。



僕は笠利町辺留のカトリック墓地で眠る祖父の墓参りへ向かった。奄美市名瀬から車で1時間ちょっと。梅雨明けを控えた奄美大島は、急激に気温があがり、うだるような暑さだった。
祖父の墓掃除を終え、僕は時間も忘れて墓前に手を合わせていた。刺すような日差しも問題ではなかった。ふと見上げると、真っ白いキリスト像が、穏やかな顔つきで墓地全体を見つめている。祖父は守られていると思うと、なぜだか嬉しかった。
沖縄が日本に復帰した昭和47年。
僕は、この辺留(べる)の地に生まれた。昭和50年、すぐ下の弟が生まれるまで、この場所で暮らしていた。その後、名瀬に移り住むことになったが、年に数ヶ月は辺留の祖父母の家に預けられたものだった。
祖父母は、茅葺の、昔ながらのシマの家に住んでいた。数は少ないが、祖父は牛小屋で牛と豚、山羊と鶏を飼っていた。夜になると祖母は大島紬を織っていた。テレビはNHKしか映らない。商店がない代わりに移動販売の車が品物を抱えてやってくる。そんな時代だった。祖父母と孫の3人の暮らし。ほんとうに幸せだった。
僕にとって、唯一の遊び場は辺留の海だった。エメラルド・グリーンに輝く、海を見つめながら、釣り糸を垂らす。時折、祖母が僕の名を呼びながら、聞きなれない名前の栄養剤を持ってきてくれた。
僕は祖母を「おっかん」と呼んでいた。
祖父の墓参りが済んだら、無性に辺留の海が見たくなった。
もうすぐ待望の谷口正樹さんのパッションフルーツが始まる。奄美の夏の始まりを告げる果物だ。思いっきりご紹介したい。そしてまた、この夏、あたらしい挑戦が始まる。下準備におおわらわですが、ご紹介できる、その日をご期待ください。
7月1日の辺留の海。手に取れそうなほど白い雲が近かったです。




